【行政書士】日本国憲法の話
-今だから、もういちど憲法を読み直そう-
36条


 みなさんこんにちは。
 TAC行政書士講座・講師の小池昌三です。

 みなさんは、松橋(まつばせ)事件をご存知でしょうか。1985年、熊本県で起きた殺人事件です。この事件で有罪とされ、13年間服役させられたのが、宮田浩喜さん(85)です。宮田さんの無罪を裏付ける有力な証拠が発見されたことにより再審が決定されました。その審理が、熊本地裁で2月8日に行われ、検察側は有罪立証をしなかったため即日結審。判決は3月28日に言い渡されます。無罪判決となる見通しです。

 冤罪。罪もない人が、罪を着せられ、刑罰権の行使の犠牲となること。本当に怖いことです。懲役であっても、身体の自由が長い間奪われてしまう。ましては、死刑になってしまっては、もう取り返しがつかないのです。冤罪は絶対にあってはいけないことです。

 「10人の犯人を逃がすとも、1人の無辜を罰するなかれ。」とは、近代刑事司法の大原則です。

 「この10人の中に真犯人は必ずいる。その真犯人1人を逃さず処罰するために、10人全員を処罰する。」というのではなく、「この10人の中に真犯人は必ずいる。その真犯人1人が誰か確定できなければ、10人全員を無罪にする。」ということです。犯罪を犯していない人(無辜)が処罰されることは絶対にあってはいけないことだからです。

 国家は、私たちの幸せのために存在しています。私たちが国家のために存在しているわけではありません。だとするならば、罪もない人が、国家権力の都合によって刑罰を科せられることは絶対にあってはいけないことです。もし、刑罰を科するのであれば、国家は、確実な証拠を収集し、真犯人を確定できなければならないということです。そうしてはじめて、国家は私たちに刑罰権を行使できることになります。それだけ、国家権力が暴走することは非常に怖いことなのです。

 冤罪事件では、よく、行き過ぎた捜査が問題とされます。長時間拘束し、威圧的な態度をとり、被疑者に自白をさせる。被疑者は孤独です。そのなかで、何人もの捜査官に取り囲まれれば、誰でも恐怖を感じます。捜査官の言われたままに自白してしまうこともあります。それが、証拠となり、犯罪を犯していないにもかかわらず、有罪となってしまう。このようなことを避けるためにも、今後は、捜査の可視化を進めることが絶対に必要ではないかと思います。


 今回は、残虐刑の禁止を定める36条を読んでいきましょう。まずは条文確認から。


【36条】

公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。


 公務員いよる拷問や、残虐な刑罰は絶対に禁止されます。かつて、そのようなことが行われて、たくさんの国民の幸せが奪われてしまいました。そのようなことが二度と起こらないように、「絶対」に禁止されているのです。

 ここで、死刑は残虐な刑罰に該当しないのかが問題となります。
 本条に関し、死刑の合憲性について争われた事件があります。判決において、刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられないと結論付けています(最大判昭23.3.12)。
 この判決は70年前に出された判決です。また、国際的な潮流として、死刑制度を廃止する方向性に向かっています。EUでは、死刑制度を廃止することがEU加盟の条件であったりします。このような状況において、70年前と同じように、今でも死刑制度は「残虐な刑罰に該当しない。」として維持することができるのかは、これからも考えていかなければならないことです。その参考として、判例の判旨を掲載します。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。(赤字は私がつけました)


【判旨】
 生命は尊貴である。一人の生命は、全地球よりも重い死刑は、まさにあらゆる刑罰のうちで最も冷厳な刑罰であり、またまことにやむを得ざるに出ずる窮極の刑罰である。それは言うまでもなく、尊厳な人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去るものだからである。現代国家は一般に、統治権の作用として刑罰権を行使するにあたり、刑罰の種類として死刑を認めるかどうか、いかなる罪質に対して死刑を科するか、またいかなる方法手続をもつて死刑を執行するかを法定している。そして、刑事裁判においては、具体的事件に対して被告人に死刑を科するか他の刑罰を科するかを審判する。かくてなされた死刑の判決は法定の方法手続に従つて現実に執行せられることとなる。これら一連の関係において死刑制度は常に、国家刑事政策の面と人道上の面との双方から深き批判と考慮が払われている。されば、各国の刑罰史を顧みれば、死刑の制度及びその運用は、総ての他のものと同様に、常に時代と環境とに応じて変遷があり、流転があり、進化がとげられてきたということが窮い知られる。わが国の最近において、治安維持法、国防保安法、陸軍刑法、海軍刑法、軍機保護法及び戦時犯罪処罰特例法等の廃止による各死刑制の消滅のごときは、その顕著な例証を示すものである。そこで新憲法は一般的概括的に死刑そのものの存否についていかなる態度をとつているのであるか。弁護人の主張するように、果して刑法死刑の規定は、憲法違反として効力を有しないものであろうか。
 まず、
憲法第十三条においては、すべて国民は個人として尊重せられ、生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし、同時に同条においては、公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから、もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに、憲法第三十一条によれば、国民個人の生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によつて、これを奪う刑罰を科せられることが、明かに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである。言葉をかえれば、死刑の威嚇力によつて一般予防をなし、死刑の執行によつて特殊な社会悪の根元を絶ち、これをもつて社会を防衛せんとしたものであり、また個体に対する人道観の上に全体に対する人道観を優位せしめ、結局社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性を承認したものと解せられるのである。弁護人は、憲法第三十六条が残虐な刑罰を絶対に禁ずる旨を定めているのを根拠として、刑法死刑の規定は憲法違反だと主張するのである。しかし死刑は、冒頭にも述べたようにまさに窮極の刑罰であり、また冷厳な刑罰ではあるが、刑罰としての死刑そのものが、一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられないただ死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから、死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し、刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は、理由なきものといわねばならぬ。


 としています。
 更に、数人の裁判官が、意見を書いています。なかなか意見まで読む機会はないと思いますので、ぜひ、これを機会に読んてみてください。

【裁判官島保、同藤田八郎、同岩松三郎、同河村又介の補充意見】
 憲法は残虐な刑罰を絶対に禁じている。したがつて、死刑が当然に残虐な刑罰であるとすれば、憲法は他の規定で死刑の存置を認めるわけがない。しかるに、憲法第三十一条の反面解釈によると、法律の定める手続によれば、刑罰として死刑を科しうることが窺われるので、憲法は死刑をただちに残虐な刑罰として禁じたものとはいうことができない。しかし、憲法は、その制定当時における国民感情を反映して右のような規定を設けたにとどまり、死刑を永久に是認したものとは考えられない。ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によつて定まる問題である。而して国民感情は、時代とともに変遷することを免かれないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることも在りうることである。したがつて、国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。かかる場合には、憲法第三十一条の解釈もおのずから制限されて、死刑は残虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう。しかし、今日はまだこのような時期に達したものとはいうことができない。されば死刑は憲法の禁ずる残虐な刑罰であるという理由で原判決の違法を主張する弁護人の論旨は採用することができない。



【裁判官井上登の意見】
 本件判決の理由としては大体以上に書かれて居る処でいいと思ふが、私は左に法文上の根拠に付て少しく敷衍して置きたい。
 法文に関係なく只漫然と、死刑は残虐なりや否やということになれば、それは簡単に一言で云い切ることは出来ない。「残虐」と云う語の使い方如何によつてもちがつて来る、例へば論旨の様に「死刑は貴重な人命を奪つてしまうものたから、これ程残虐なものはないではないか」と云うふうに使う人もある、(仮りにこれを広義の使い方と云つて置く)しかし、又「残虐と云う語は通常そう云うふうには使わないのではないか、虐殺とか集団殺戮とか或は又特別残酷な傷害とかそう云う様な場合に特に用いられるので、単純な傷害や殺人に対しては余り使はれないのではないか」と云えば、そうも云えるであろう(仮りにこれを狭義の使い方と云つて置く)こんなことを云つて居てはきりがない、我々の当面の問題はこう云うことではないので、具体的に憲法第三十六条の「残虐の刑」と云う語が死刑(現代文明諸国で通常行われて居る様な方法による死刑の意以下同意義)を包含する意味に使われて居るかどうかと云うことである(我々の問題は死刑を規定して居る刑法の条文が憲法第三十六条に違反するものとして無効な法律であるかどうかと云うことであり、つまり同条は絶対に死刑を禁止する趣旨と解すべきものなりや否やの問題だからである)そしてこれは純然たる法律解釈の問題だから何と云つても法文上の根拠と云うものが重要である私は前にも書いた通り残虐と云う語は広くも狭くも使われ得ると思ふから憲法第三十六条の字句丈けで此の問題を決するのは無理で、法文上の根拠と云えば他の条文に之れを求めなければならないと思う、そこで
憲法第十三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」と規定し同第三十一条は「何人も、法律の定める手続によらなければその生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と規定して居る、これ等を綜合するとその裏面解釈として憲法は公共の福祉の為めには法律の定めた手続によれば刑罰によつて人の生命も奪はれ得ることを認容して居るものと見なければならない、之れと対照して第三十六条を見ると同条の「残虐の刑」の中には死刑は含まれないもの即ち同条は絶対に死刑を許さないと云う趣旨ではないと解するのが妥当である(即ち同条は残虐と云う語を前記狭義に使用して居るので、私は此の使い方が通常だと思ふから右の解釈は字義から云つても相当だと思う)反対説は第三十一条は第三十六条によつて制限せられて居るのだと説く、しかし第三十一条を虚心に見ればどうしてもそれは無理なこじつけと外思えない、若し第三十六条が絶対に死刑を許さぬ趣旨だとすれば之れにより成規の手続によると否とに拘はらず絶対に刑罰によつて人の生命は奪はれ得ないとになるから第三十一条に「生命」と云う字を入れる必要はないのみならず却つてこれを入れてはいけない筈である、盖同条に「生命」の二字が存する限り右の趣旨に反する前記の裏面解釈が出て来るのは当然であり憲法の文句としてこんなまずいことはないからである、他に第三十六条が絶対に死刑を禁止する趣旨と解すべき法文上の根拠は見当らない。
 以上は形式的理論解釈である、現今我国の社会情勢その他から見て遺憾ながら今直ちに刑法死刑に関する条文を尽く無効化してしまうことが必ずしも適当とは思われぬことその他実質的の理由に付ては他の裁判官の書いた理由中に相当書かれて居ると思う。最後に
島裁判官の書いた補充意見には其の背後に「何と云つても死刑はいやなものに相違ない、一日も早くこんなものを必要としない時代が来ればいい」と云つた様な思想乃至感情が多分に支配して居ると私は推察する、この感情に於て私も決して人後に落ちるとは思はない、しかし憲法は絶対に死刑を許さぬ趣旨ではないと云う丈けで固より死刑の存置を命じて居るものでないことは勿論だから若し死刑を必要としない、若しくは国民全体の感情が死刑を忍び得ないと云う様な時が来れば国会は進んで死刑の条文を廃止するであろうし又条文は残つて居ても事実上裁判官が死刑を選択しないであろう、今でも誰れも好んで死刑を言渡すものはないのが実状だから



 憲法が死刑を許さない趣旨ではないとしても、それだけで、積極的に死刑を存置しなさい、と言っているわけでもないということ。国民感情が変われば、死刑が残虐な刑罰とされ、死刑が廃止される時代も来る。そんなことを、当時の裁判官は述べています。
 まさに今、国民感情はどのように変遷してきているのか。死刑制度は必要なのか否か。それを判断するための資料が、私たちには不足しているようにも思えるのです。ただ、冤罪や、人権問題、さらには国際的な潮流など、さまざまな状況を見据えた上で、それを今一度議論し、考えてみる時に来ているのではないかと思うのです。
 次回は、37条について読んでいきます。お楽しみに。

 以上




【お知らせ】
TAC行政書士講座では、各校舎でガイダンスや講義を行っています。
また開講日は予約不要・無料で実際の講義(基本講義)を受ける事ができます。
ご興味がありましたら、ぜひお気軽にTAC各校舎やカスタマーセンターまでお問い合わせください。

TAC行政書士講座のホームページはこちら